信心のお稽古
教会にお参りして、神様にご祈念して願いごとや願いが叶ったり良いことが起きてお礼申したりするわけですが、お広前というのは
「氏子の願い礼場所。信心の稽古場所。」
と教祖様は仰るわけですから、願い礼だけではないわけですね。
わざわざお参りして、神様にご祈念させていただくと、神様はおかげを用意して下さるけど、それを受けとるためには器が必要になってきます。
たまに「私は金光教に〇〇年お参りしてます。」と言う方もいますが、
ただお参りを続けているからと言って、信心が成長しているかは別の話なのですね。
当たり前のことですが、ピアノ教室に通っても、塾に通っても、行っただけではなく、勉強したりお稽古するから上達するのですもんね。
良い塾に通ってても、ボーっとして帰るようなもんですからね。何にもならない。
塾に通っていることだけで満足しているようなものです。
お参りだけで満足してしまうのか、お参りはしていても、残念ながら信心になっていない場合があります。
難しいことではないのですが、これさえも何十年お参りしたところで、教会の先生に教えてもらえないと分からないようです。
時間もお金も使って、わざわざお参りしているのですから、ちゃんと信心のお稽古をすれば、おかげを頂けるのに勿体ないなぁ。と思いますし、おかげを用意しても受け取ってもらえない神様が、一番残念に思うのです。
わざわざお参りしても、神様の心を痛めていては、、、。
他の宗教や、神社仏閣のことは分かりませんが、まずはよく話を聞いてもらって、それからどうすれば上手くいくのか、生きやすくなるのかを聞かせてもらって、自分なりにお稽古しないと、何も変わらないことが多いですよ。
そのために金光教では「お結界」という場があり、先生が居てくれるのです。
例え教えてもらっても、「我」が強くては、素直に聞けない人もいます。
そもそも会社でも家庭でも、上手くはいかないですよね。人の意見を聞けない方は、意見を聞いてもらえないことにもつながりますから。やがて孤独になってしまいますね。
それではなおさら仕事や人間関係がうまくいくようにと願っても無理でしょうね。。。
何十年もお参りしているからと、信心しているつもりで、いざというときに困ってしまったり、結局何もわかっていないような、そんなみっともないことにならないように、信心のお稽古をさせて頂きたいものです。
期待されると
兵庫県で初めての一人暮らしの時、アルバイトをしていました。
まだ引きこもりから間もなく、ちゃんとできるかは心配でしたが、働かないと生活できません。
これまで何とか頑張ろうとしても無理でしたから。力んでも空しくなるばかりで、、、そこは分かっていたので、とにかく自分の力でしようとず、神様にお願いしながらです。
採用されたのはとあるドーナツ屋さんでした。仕事内容は希望かなわず主に接客でしたので、今思うとなかなか思い切った性格なのかもしれません。
それでも一日一日何とか自分なりにお仕事を頑張りました。
高校を登校拒否になってからは、お先真っ暗な人生でしたから、こうしてアルバイトでき一人暮らしでき、本当に夢のようなことでした。
頑張りがいもあり、仕事を任せてもらえたり期待されるのことが、ただただ嬉しかったです。そのため、急な勤務でも頼まれたら断れませんでした。
「こんな自分でも役に立てるなら」「困っているなら」という思いから「嫌われたくない」と知らず知らず変化していき、苦しくなっていきました。
期待に応えたい、必要とされたいと気持ちが強くなり、徐々に自分の首を絞めていたのです。
教会にお参りする中で、そうした自分の心を見つめ、お結界で聴いて頂いたり、
「それであなたはしんどくないか?」と先生に問われて始めて、
ようやく自分の考え方や、心の動きの癖を知ることになるのです。
それでも今までそうして生きてきた訳ですから、修正するのに痛みが伴います。
具体的には、急な出勤を断ることですが、なかなか怖くて勇気がいりました。
続いて先生から「お店が困っているなら、入れる人が見つかるように。お店や店長さんが困らないように、お願いしたらよいですよ。」とも教えて頂き、ハッとしました。
私も、自分ではどうしようもない所を神様にお願いさせて頂いて、ここまでおかげを頂いてきたわけですから、当然、私以外でもそうなのです。
今までが、自分の力で何とかしないといけない。という所から、自分では抜け出せない状況になると、絶望だったわけですから。
1,自分の価値は、他人に必要とされるからという不確かものではなく、そもそも尊い命であることに気付くこと。
2,自分のことも、お店のことも、自由にはならないから、神様に祈るということ。
今後の助かりにも大きく影響する、この二つをよく学ばせて頂いた経験となったのでした。
話を聴いてほしい
こんにちは。
昨年も様々なことがありましたね。ニュース等で見聞きする世界や社会情勢など。
またお一人お一人、身の上にも様々なことがあったと思います。
世界のニュースや、最近の気候などは、家族や時にはご近所さんとも世間話しますよね。
人は人とコミュニケーションを取ることがとっても大切だと感じます。
挨拶一つでも、やはりうれしいものです。お相手が忙しそうで、遠慮しすぎて機会を失うことが多々ある私としては、先制してくれると非常に助かる時もありますが、、、。
☆
でも本音の部分と言うか、自分にとってデリケートな問題になればなる程、そう人に話すことはできにくくなるのではないかと思います。
こうして教会で話を聞かせて頂いても、夫婦親子友人との仲良しの秘訣は、本音を言わないことなのでしょうか。と言われる方もしばしば。
本当に話したいのは、胸の内。
確かにそうかも知れません。
身近にいるから話せない、ちゃんと伝わらないこともあるのかも知れません。
今年もそうした胸の内を聴かせてもらえると、私もうれしいです。
今年は
新年が明けてもう16日が経ちますね。
うかうか過ごすと人生もあっという間な気がします。
でも、それは今だからこそ。
以前の、それこそ一瞬先の不安に押しつぶされそうな、明日に希望が持てない頃では、そこまでの余裕はありません。
同じ一時間でも、その時の状況や環境によって全く感じ方が違うのも、考えてみれば不思議なことでもあり、これまでの経験で当然とも思います。
今の今が続いて、一日、一週間、一月、一年・・・。
不安、心配が付きまとうと、夜も寝れない。夜寝れないのは本当に辛いですよね。ぐるぐる頭の中で回ります。
プラス思考?なれるのなら、もうなってる。ってよく思ってました。
プラスでも、マイナスでもなく、ただ静かに願う。時に激しく身もだえしながら願う。次第次第に、心が落ち着いてきたのでした。
「心配は体の毒、神に無礼である。心配する心を神に預けて、信心する心になれよ。」
「神へは何でも願え。神は頼まれるのが役である。」
と教祖様のみ教えです。
神様が分からなくても、願ってみる。やってみないとわからないのは、何事もそうですもんね。
一つ一つ
「何事にも無理をするな」
というみ教えが金光教にはあります。
御教えというのは、教祖様が、とある参拝者にお話しする中で、その参拝者の方が特に心に残ったりして、その方本人や、聞き伝えられた方が後世に残された言葉です。
ですから様々な時代社会、教祖様とお話しされた方々の背景の中でのフレーズなのですが、言葉の一つ一つに、私たちは学ぶことがたくさんあるのです。
忙しくなると、あれこれと考えながら行動してしまい、今の手元がおろそかになってしまったり、雑になったりして結局やり直すことになったりして、さらに手間が増えてしまうことがよくありました。そうなってきますと、イライラとしてきますよね。
そのような時には、以前お取次を頂いたことを思い出しながら、心のお稽古をさせて頂くのです。今はこのことをする。しながら他のことを考えて、段取りなど何かうまくいくなら考える必要はあるのですが、そうでもなくただあれもこれもと焦るような気持ちだと、考えるのが無駄になっていますよね。
あれもこれもとなっているときは、あたかも右を向いたまま左を向こうとするようなもので、、、少し立ち止まって考えてみるとわかることも、物事に心をとらわれるとこうしたことにも陥りやすいのでしょうね。
結果として、今を大切にできないことになってしまいます。
今の今を大切にすることが、今日を大切にすることになり、その繰り返しが一生になるのですね。
生立ち
私は、金光教宇都宮教会で生まれ育ちました。
四人兄弟で、姉、兄、姉、私です。
しつけの厳しい家庭と感じませんでしたし、のちのち友人とかから、他の家庭の話を聞く中でも、なんとなく比較してみた感覚です。
とは言いましても、子供は余計な事をするもので、、、姉や兄はよく怒られていました。笑
何をしたのかは、わからないのですが、私にはその怒られている様子だけぼんやりと覚えていて、とにかく自分は怒られないように気を付けていました。むしろ怒られないようにしなければという恐怖さえありました。
でも何をしたら怒られるのか理解できなくて、そのため怒られるくらいなら、何もしたくないような感覚でした。
それでも場面が変わって食卓では、家族6人で囲むのですが、誰かがなにか探すそぶりなどすると、
醬油かな?それともティッシュかな?と神経を傾け、率先して取りに行きます。
いわゆるマメな子と、よく言われてました。そう言われることが嬉しく、自分の自信になってました。
あくまで自分の気づける範囲ですけど。昔から、常に周囲を気にしていたのだと思います。
この幼少の記憶が、助かりを求めるか中で「自尊心」という言葉を知り、自分の生き方を見つめる中で、とても自分の内面を表しているなぁと感じるのでした。
一概に良い、悪いという事ではなくて、自分を知るという事ですね。
客観的に自分を知るという事は、なかなか難しく、その分大切なことだなぁと感じます。
鳥の目線に例えて、自分を上から見てみるようなことを、信心でもよく言います。信心ではそれが神様からの目線ともとらえられます。
生きにくい時、何か壁に感じることも、目線を替えることで、迷路の解き方がわかるように、生き方の糸口が見えてくるものなのですね。
信心するということ
金光教を知って、悩みや願いがあって、皆さん教会にお参りされるわけですが、日が浅い方の中には、お参りしたら何か状況が変化したり、何かいいことが起きるのだと思う方が、少なくないかもしれません。
困った時の神頼みと言いますが、まさに神頼みで、悩みが晴れることが信心だと思われているのですね。
もちろん神様にお祈りさせて頂いて、願いどおりや、時には思ってもないようなおかげを頂くこともあります。
ただ、それだけを期待してるかたには、なかなか難しいのかなぁと感じます。
私は、悩みを聞かせて頂いたり、お参りされた方のことを神様に祈らせていただくのですが、願うことと、願いに沿った生き方をしていくのと、両方大切なのだと感じます。
願った先は、神様任せです。
願いに沿った生き方をしていくというのは、私たち本人次第なのです。
少し考えれば当たり前のことですが、例えば、受験で合格したい学校があるとして、神社などでもお願いする方はおられますよね。でも、それで神任せで、遊んでいては、なかなか合格は難しいでしょう。無理ですよね。
しっかり勉強して、努力して、そしてお願いもさせて頂くのですよね。
これと同じで、悩みや生きにくさを抱えている方が、助かりを望むわけですが、願っておきながら、悩みもこれまでの生き方も棚上げしていては、変化は難しいのではないでしょうか?
どうすることもできない。もう余裕がない。という方もおられますから、お話しを聞かせて頂くわけです。
私自身も、引きこもりから脱却したい。助かりたい。と思い、必死に当時まだよくわからなかった神様に、助けてください。学校に通わせてください。とお願いさせて頂いてましたが、あとは寝たり、ゲームしたりとかではないですもんね。
何ができるだろうと、取り組む中で、変化が起きてきました。
生き方が変わるから、現実も変わるのですもんね。
体の病気も、心の病気も、経済も人間関係もそうですもんね。一生懸命であっても、これまでの人生の集大成が、今の今ですもんね。
自分の手の届かないところは、ちょっと脇に置いておいて、できるところから取り組んでみてはいかがでしょうか。