信治先生の日記

金光教宇都宮教会の教師です。ひきこもりからの助かりや、日々のことを綴っています。

信心するということ

金光教を知って、悩みや願いがあって、皆さん教会にお参りされるわけですが、日が浅い方の中には、お参りしたら何か状況が変化したり、何かいいことが起きるのだと思う方が、少なくないかもしれません。

 

困った時の神頼みと言いますが、まさに神頼みで、悩みが晴れることが信心だと思われているのですね。

 

もちろん神様にお祈りさせて頂いて、願いどおりや、時には思ってもないようなおかげを頂くこともあります。

 

ただ、それだけを期待してるかたには、なかなか難しいのかなぁと感じます。

私は、悩みを聞かせて頂いたり、お参りされた方のことを神様に祈らせていただくのですが、願うことと、願いに沿った生き方をしていくのと、両方大切なのだと感じます。

願った先は、神様任せです。

願いに沿った生き方をしていくというのは、私たち本人次第なのです。

 

少し考えれば当たり前のことですが、例えば、受験で合格したい学校があるとして、神社などでもお願いする方はおられますよね。でも、それで神任せで、遊んでいては、なかなか合格は難しいでしょう。無理ですよね。

しっかり勉強して、努力して、そしてお願いもさせて頂くのですよね。

 

これと同じで、悩みや生きにくさを抱えている方が、助かりを望むわけですが、願っておきながら、悩みもこれまでの生き方も棚上げしていては、変化は難しいのではないでしょうか?

どうすることもできない。もう余裕がない。という方もおられますから、お話しを聞かせて頂くわけです。

 

私自身も、引きこもりから脱却したい。助かりたい。と思い、必死に当時まだよくわからなかった神様に、助けてください。学校に通わせてください。とお願いさせて頂いてましたが、あとは寝たり、ゲームしたりとかではないですもんね。

何ができるだろうと、取り組む中で、変化が起きてきました。

 

生き方が変わるから、現実も変わるのですもんね。

体の病気も、心の病気も、経済も人間関係もそうですもんね。一生懸命であっても、これまでの人生の集大成が、今の今ですもんね。

自分の手の届かないところは、ちょっと脇に置いておいて、できるところから取り組んでみてはいかがでしょうか。