信治先生の日記

金光教宇都宮教会の教師です。ひきこもりからの助かりや、日々のことを綴っています。

信心の稽古

以前は、犬のお散歩でさえ難しいわたしでしたから、登校や買い物など、道中も行った先でも逃げ場がない、想像しただけでも地獄なわけです。

 

人の気配があるだけで、もう心の声が聞こえてくる。自分の思い込みだ、これは幻聴だと言い聞かせても、聞こえてしまう。逃げ出してしまう。

 

そんな私が、神様に出会わせていただいて、出会うと言いましても目に見えたりするわけではありません。

そこで金光教の教祖様の御教えを教えて頂くのですね。

 

『天と地の間に人間がいる。天は父、地は母である。人間、また草木など、みな天の恵みを受けて、地上に生きているのである。』

 

金光教尼崎教会の津田昇平先生を、叔母に紹介していただいて、メールでのお取次を頂いて、助けて頂いたのですが、お取次とは神様と私たち氏子の間を取り次いでくださるのですが、当時は私もよくわかりませんので、

「しんどい思いを聞いて頂いたらよいのです。」という言葉通りに、引きこもりでの苦しい思いを聞いて頂いて、その都度、神様のことや、先生ご自身が取り組まれていた信心を教えて頂くのです。

その中で、時に教祖様の御教えと、詳しい説明やご体験を話してくださるのです。

 

「この天地は神様のお身体なのですよ。だから外に出ても、空や雲、草木や虫、地面も土も川もみんな神様のお身体ですから、人に心が向かってしんどくなる時に、神様に話しかけたらよいのですよ。空でも草木でも地面でも、助けて。と祈ったら、それで神様が守ってくださいますよ。」

 

と教えて頂きました。

もう助かるためには藁をもつかむ気持ちですから、それで助かるのであればと、素直に取り組ませて頂きました。

とにかく人に心が向かってしまいます。

その心を神様に、天地に向かわせて頂くことが、なにより私が助かるためのお稽古でした。

 

すぐにはうまくできなかったり、本当に楽になったりと、状況によりさまざまでしたが、取り組むうちに、だんだん外に楽に出れるようになったのです。

 

 

 

 

 

ロンと北斗

まだ引きこもりになりかけの頃、シェットランドシープドッグという犬種のオスの子犬を飼い始めました。

私が、その当時に考えて、人と関わらなくても生きていけるお仕事を探したのが、犬のブリーダーでした。

 

元々、柴犬の北斗君を飼っていたのですが、子犬から迎えたいと思っていました。

店頭で惹かれたのが、古い日本家屋に似つかわしくない、柴犬とは真逆のような容姿でした。さすがに日本名は思いつかず、ロンと名付けました。

 

私が家にいる事も多く、頑張ってしつけを試みますが、なかなかうまくいきません。

そもそも散歩に連れて行くのさえ、私がままならなくなっていきましたから。

人目を避け、夜に行ったり、それでも早く帰りたくて、仕方がありません。

 

様々に調べる中で、しつけの方法もありますが、家の中だけではなく、庭や散歩中なども取り組むことがあり、結局私には苦痛になることばかりでした。

 

いざ、ロン君を飼ってみて、遊び相手や躾けるパートナーになってくれましたが、私には難しい。将来に人と関わらないことなど、無理なのかもしれない。そうなると・・・。と、自分なりに考えた希望の光が消えてしまった気がしました。

 

それでも、一日一日の中で、北斗君とロン君に癒される時間はとても多く、私なりに愛情をかけて過ごさせて頂きました。こうした時間にどれほど救われたかわかりませんね。

 

でも不安や鬱憤など、もやもやと負の感情を持つ私に、しつこくされるのは、なかなか大変だったろうなぁ。。。ごめんね。ありがとう。

 

 

買い物

今日は、明日の神様のお祭りのお供え物を買いに、スーパーへ行きました。

 

あれこれと考えながら、買うものを選びます。

 

決まったので、レジへ行くのですが、それなりに量があるので、セルフレジではない従業員さんがレジをしてくれる方に進みました。

二つ以上、レジがある場合、どこに並ぼうか?と選んだりしますが、

人数とか、客層とか、慣れている従業員さんとか、考えこむわけではありませんが、見ますよね。

 

結構高い確率で、私が並ぶレジでは、何か問題があって遅れるのです。見る目がないのでしょうかね。。。実際は普通の日常のことで、気にならないことなのかもしれませんが、こうした状況に、私が意識してしまうのには理由があります。

 

 

まず一つ目に、そもそもレジを待つこと、自分の後ろにも待つ人がいる状況が、

あたかも小学校の頃に大縄跳びの順番を待つかのような、自分が失敗したらどうしようか。というような緊張感を感じるのです。一番手持ち無沙汰な時間ですから、見るし見られるし、普通ですが、これが苦痛の時もあるのです。

二つ目に、自分の選択がまちがっていたのではないか、周りに笑われてないかと、周りの目を気にしてしまったりしてしまうんです。

 

こうして、あれこれと余計な事を考えたり、感じてしまうことを、『心の癖』と私は呼んでいるのですが、そのものは引きこもっていた時から持ち続けているのです。

それが、気にならないほど小さくなったり、大きくなったりするので、おそらく私の人生で一番大きく長く続いた時に、引きこもらざるを得なかったのだと思います。

時折感じる心の癖が、大きくなりかけた時に、意識すればするほど、負のスパイラルに陥ってしまうのです。

そこで今の私は信心をさせて頂くことで、すっと心が楽になるのです。

 

今では生活の中で、気にならないときの方が多いですし、あれこれと考える余裕もない時もありますが、こうしたひょんなきっかけで、以前のことや苦手意識を感じた時などに、

「今日もこうして当たり前のように、スーパーに来れた。買い物もできた。何てありがたいのだろう。神様、ありがとうございます。」

と、自分自身と向き合い、客観的に状況を見つめることで、より落ち着くのですね。

待つ時間を、これまでしんどかった事と、今のありがたい実感を味わいながら、神様にお礼申し上げる時間にしてしまうのです。

 

自分を知って、その対処方法がわかれば、安心ですよね。

操縦の仕方がわからない乗り物に乗させられるほど怖いことはありません。

 

なかなか自分を知るというのも、難しい事なのですけどね。

 

優しさ

引きこもる方は、周囲にもおられますよね。

わざわざ言って回る親御さんはおられませんが、ふとした会話の中で、「実はうちの子が・・・」と、打ち明けて下さる方もおられます。

 

私も、引きこもっていた経験がありますから、

どうしたら?

本人はどういう気持ちなの?

と、尋ねられることもあります。

 

私の場合は、親に心配をかけたくない。親にも、自分の弱みをしられたくない。と思っていましたし、何より自分で自分の状況を理解できませんでしたから。

なんで?どうして?学校に、外に行けないのか。。。と落ちていく中ですから。

 

こんな私を知ったら、両親は私をどう思うだろうか?

と、確かめることも怖くて怖くて、言えなかったんです。

頭痛とか腹痛とか、学校に行けてない訳ですから、何かあるのかと思われているとは感じてましたけどね。

 

やがては、高校の進路のこともあって打ち明けることはできたのですが、それも簡単ではなかったですね。

 

引きこもる方からとか、周囲の方から聞くと、やはり皆さん繊細で、人に気を使えたり、優しい方ばかりなのだろうなぁと思います。もちろん何も問題のない方もそうですけどね。

どこか生きづらいのだろうと思います。

 

十人十色と言いますが、一人一人の声を聴いてあげてほしいと思います。

本人が一番戸惑い、そうそうまとまらない想いですから、それも容易ならないことですけどね。

初めまして。

初めまして。私は高校の頃に引きこもりを経験しました。

中学の頃から、とにかく人の目が気になってしまい、とても怖くなって、とうとう高校一年の後半から登校できなくなりました。やがて外出できなくなりました。

 

そんな私が出会ったのは、とある信仰でした。

 

半信半疑ながらも、苦しい日々を必死に生きたら、結果的に引きこもったのは2年ほどでした。

徐々に、外出ができ、アルバイトしながら一人暮らしができ、今に至ります。

 

引きこもりで2年は短かいと思われる方もおられますが、一日一日一瞬一瞬、先のわからない不安は死ぬほど辛いものですよね。

それは誰でも変わらないと思います。

 

今は少し生き方が変わった私が、生きやすくしてくれた信仰に基づくお話しや、日常を徒然と書かせて頂きたいと思います。

 

自己紹介になってます?またおいおいで('_')