信治先生の日記

金光教宇都宮教会の教師です。ひきこもりからの助かりや、日々のことを綴っています。

買い物

今日は、明日の神様のお祭りのお供え物を買いに、スーパーへ行きました。

 

あれこれと考えながら、買うものを選びます。

 

決まったので、レジへ行くのですが、それなりに量があるので、セルフレジではない従業員さんがレジをしてくれる方に進みました。

二つ以上、レジがある場合、どこに並ぼうか?と選んだりしますが、

人数とか、客層とか、慣れている従業員さんとか、考えこむわけではありませんが、見ますよね。

 

結構高い確率で、私が並ぶレジでは、何か問題があって遅れるのです。見る目がないのでしょうかね。。。実際は普通の日常のことで、気にならないことなのかもしれませんが、こうした状況に、私が意識してしまうのには理由があります。

 

 

まず一つ目に、そもそもレジを待つこと、自分の後ろにも待つ人がいる状況が、

あたかも小学校の頃に大縄跳びの順番を待つかのような、自分が失敗したらどうしようか。というような緊張感を感じるのです。一番手持ち無沙汰な時間ですから、見るし見られるし、普通ですが、これが苦痛の時もあるのです。

二つ目に、自分の選択がまちがっていたのではないか、周りに笑われてないかと、周りの目を気にしてしまったりしてしまうんです。

 

こうして、あれこれと余計な事を考えたり、感じてしまうことを、『心の癖』と私は呼んでいるのですが、そのものは引きこもっていた時から持ち続けているのです。

それが、気にならないほど小さくなったり、大きくなったりするので、おそらく私の人生で一番大きく長く続いた時に、引きこもらざるを得なかったのだと思います。

時折感じる心の癖が、大きくなりかけた時に、意識すればするほど、負のスパイラルに陥ってしまうのです。

そこで今の私は信心をさせて頂くことで、すっと心が楽になるのです。

 

今では生活の中で、気にならないときの方が多いですし、あれこれと考える余裕もない時もありますが、こうしたひょんなきっかけで、以前のことや苦手意識を感じた時などに、

「今日もこうして当たり前のように、スーパーに来れた。買い物もできた。何てありがたいのだろう。神様、ありがとうございます。」

と、自分自身と向き合い、客観的に状況を見つめることで、より落ち着くのですね。

待つ時間を、これまでしんどかった事と、今のありがたい実感を味わいながら、神様にお礼申し上げる時間にしてしまうのです。

 

自分を知って、その対処方法がわかれば、安心ですよね。

操縦の仕方がわからない乗り物に乗させられるほど怖いことはありません。

 

なかなか自分を知るというのも、難しい事なのですけどね。